お絵かき招待チケット。スタンド最後列見切り席
はじめに
本記事は『298production Advent Calendar 2018』の15日目の記事です。
おはようございます。ょょと申します。初めましての人は初めまして。それ以外の人類は全員オタク。
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最近、訳あって篠宮可憐さんという方の彼氏になることになりました。「彼氏になってよ」と言われた気がしたので。
▼ぼくの彼女
▲ぼくの彼女
さて、『298production Advent Calendar 2018』は、筑波大学のアイドルマスターというコンテンツのファンサークルである『298production』のアドベントカレンダーです。そのままですね。
このアドベントカレンダーは掲載する記事の内容は自由、ということで今回はダラダラと自分の趣味の周辺について書いていきたいと思います。
発起人のデルタ君には感謝いたします。
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概要
さて、前項で少し説明いたしましたが、本記事ではただ自分の趣味について、知識の整理がてら書いています。なので誤字脱字は頻発するし、口調は"ですます調"と"である調"が混在するし、そもそも日本語下手で読みづらいし、でサイアクです。
何より一番最悪なのが、はてなIDが変更可能だと思ってたので『kaori_sakuramori』のIDを取ってしまったことです。なんで誰も使ってないんだ・・・。
じゃあそんな記事はなんのために書いたか。それはなんとなく書いてみたかったからです。ちょっとした贅沢を言うならば僕のような初心者とお絵かきを一緒にしてくださる仲間が欲しいからです。
一番最初にかいてるから、気分で変わるかも違ったらごめん。
読む上での注意点
まず僕は美術や認知心理学の専門でなく、それに関する教育は義務教育程度でしか受けたことがありません。なので昔読んだ文献の断片的な知識で論理展開をします。
どの本、どの教科書、どの論文で得た知識なのか正直覚えていないのでコンテンツの引用元や参考文献をつけません。
なので、すでに誤りが指摘されている説などは多々あると思います。大目に見てください。
こういった書き物に慣れていないので改行位置がかなり適当です。特に意味はありません。
ここで多用することになるであろう『キャラクタイラスト』は概ねファンアートを指し、キャラクタにオリジナルが存在する二次創作であるとします。
序文
Invitation
ぼくの勝手な持論だが、大半の人は絵がかける人に対して尊敬だったり憧れだったりと、少なくともマイナスな印象を持たないと思っている。絵に関する最近の動向だと、ムンクの『叫び』が来日し、 ポケモンやSONYのヘッドホンとコラボをするなどして話題を呼んでいる。ちなみにムンクの『叫び』は外界からの叫びに対して耳を塞いでるという構図なので、以下のポケモンの絵は構図違いである。めっちゃ可愛くて好き。時代や世代を超えて、1枚の絵が世間の話題をさらうほどまでに絵は人をひきつける。これは一体なぜなのだろうか。
遠近法の樹立
絵の歴史はラスコーの壁画にみるような狩猟方法などを伝達するコミュニケーションの歴史から始まる。視覚的な情報は言語で伝えるより情報量が多いからだ。百聞は一見にしかず、というのは日本のことわざは多くの地域で同義のproverbが存在する。地域や時代を超えて、それはヒト共通の認識だったのだろう。そしてその情報量の多さは古代エジプトにみられる絵文字ーピエログリフとなり活用される。ここまでの絵画は平面的で、非常にsymbolicである。そして、古代ギリシア時代に遠近法が開発され、美術は奥行きを得ることとなる。この時代の「人体美」を追求する美術は非常に完成度が高い。しかし、残念なことにこの時代の絵画は染料の関係や保存の技術などの要因で数多くは残っていない。
栄光のギリシア時代を経た暗黒時代(4 c.~14 c.前後) に遠近法は放棄され平面的な画の時代へと戻る。この美術の暗黒時代ーちなみに今はそう言わないが、こっちの名称の方が有名であるーでの作品は多くが宗教のモチーフ画であり、情報量を多く伝える必要性がなかったのだろう。そんな暗黒時代を経たのちに、ルネサンスにて遠近法は再発見され復活し、研究され発展を遂げることとなる。以下に掲載した画像からも、そこらへんを感じ取っていただけたらなと思う。もちろんテーゼが異なるので単純比較するのはよくないのだが。
そうした遠近法を用いた"写実的な表現"は、ルネサンス時代から私たちが生きている今の時代にかけて、常に芸術やテクノロジーのメインストリームであり続けている。”リアルさ”の追及に人は余念がない。以下に掲載する画像は(telyuka)のCGだが、ここまで行くともはや写実的表現は現実と相違無いのではないかと思う。
絵による情報の解釈
さて、前述したラスコーの壁画やピエログリフに見られたsymbolicな絵は、抽象的であるが一つ一つの絵から発信される情報は非常に具体的である。鳥の絵なら鳥、ヒトの絵ならヒトを示すように1対1で対応している。この時点での絵は概ね文字と等しく、この時代、その土地の人々は絵にそれ以上の価値訴求をしなかったーーのだと思う。ぼくがその道に関しては素人であるので詳しくはわからない。
一方で、遠近法を獲得した絵ー今回は初期ルネサンス期以降のものを示すーは緻密であり、複雑怪奇に感じることが多々としてある。表現の幅が増えたことにより、神話、宗教、権威などといった従来のテーゼに描き手の解釈や思想なども巧妙に組み込まれることとなった。
そして、その情報の発信量の多さゆえに、情報の選別は受け手側の解釈に依存することが多々ある。その具体例としてよくあげられるのはレオナルドダヴィンチの『最後の晩餐』であろう。キリストの頭に背景が向かっていく遠近構図と、テーマ性、それが見事に一致した天才的で素晴らしい絵画だと僕は思う。この絵についての個別解説は正直面倒なのでしない。
この頃には、周知の事実であるが、今とほとんど変わらない表音文字のアルファベットが存在している。象形文字としての絵画はその文字としての役割をアルファベットなどに譲ったことが、西洋美術において遠近法の発展した要因の一部にあったのではないかと、ぼくは勝手に思っている。もちろん、大きな理由は宗教や政治的なものであったということは前提として。象形文字が多い日本や中国では遠近法を用いた絵画が発展しなかったし…。
さて、本来ならルネサンスからバロック・ロココ美術の時代を経て、印象派、そして抽象美術から現代アート、という美術史の流れを説明したいところであるが、省略する。脱線するが、印象派の時代の絵画が僕は好きである。『印象派』はモネの作品である「印象・日の出」をリスペクトした作品群、およびその流派のことである。
少し脱線しましたが、そんな感じで絵画の面白さの1つはこういった受け手側に依存した情報の解釈の多様性にあるのではないかと思う。同じ人間でも、絵を見た時期やその時の心情によって絵から受けるインパクトは大きく変化する。
見るたびに印象が変わる、という点で自分の個人的に好きな絵はクロード・モネの『睡蓮』である。『睡蓮』をざっくりと説明するとモネが自邸の庭を描き続けた200作品ほどの同一テーマの連作である。モネの画風の変化で、彼が何を考えていたのか、どこに主題を置いたのかと考えるのは非常に楽しい。そんな『睡蓮』の1作は上野の国立西洋美術館に収蔵されている。小さい頃からこの絵を見続けたが、本当に楽しい。関東の大学生は常設展は無料(キャンパスなんちゃらの加盟大学なら)なのでぜひ行って欲しい。
このように絵の解釈やImpressionは描き手の意図から遠く離れ、ひとり立ちしていく。絵に限らず"作品"とは得てしてそんなものなのかもしれない。音楽の方が特に顕著なんじゃないかな、って個人的には思わなくもない。なんとなく展開的にエモいからという理由で入れただけのフレーズが議論対象になってそう。
で、ぼくは絵を見るだけじゃ満足行かなくなった。いつかエモい歌織さんをいつか描きたい!という理由でぼくは10月から本格的にお絵かきを練習することにした。
本題
個人的な気づき
さて、前文によって僕がお絵かきを始めるきっかけを書いた。いや、やっぱり書いてないかもしれない。
お絵かきをすると色々な発見がある。まずは、自分が絶望するほど絵のセンスがないという事実。そして想像以上に自分はキャラクタの外面を理解していないという事実、あと頑張れば上手くなるのではないか?という一縷の望み、などなどあげたらきりが無い。
そして、強く思ったのは「各キャラクタの内面を理解していないと絵は描けない」ということ。これは最大の気づきで最大の成果だったと思う。
不覚にも先日バズってしまった自分のつかさ社長の画像のツイート(ょょ✿ on Twitter: "オタクの身なりのはなしになるとこれを思いだす… ")で、つかさ社長は 「外面は内面の一番外側」と言及している。定期的につかさ社長はバズるが、ほぼ全てがこのセリフへの共感によってバズる。わずか10文字の短い言葉だが実に奥行きがあるセリフだと思う。この言葉を今回はぼくのお絵描きに対する持論に結びつけたい。
「外面は内面の一番外側」ーキャラクタ『らしさ』という符号
イラストを見た時に、まず全体のバランスをなんとなく見た後にキャラクタの顔に目がいく場合がほとんどである。これは、表情が人とのコミュニケーションにおいて重要な要素だからである。表情1つで多くのことを読み取れるのは言うまでもなく、我々は無意識下でその情報を高度に処理し他者との会話を成立させている。もしかしたらオタクさんは人と話してないからそうじゃないかもしれない。ぼくは人の顔を見て話すのは苦手だ。なので、イラスト上のキャラクタの表情を見たときに無意識に自分のバイアスでそのキャラクタ『らしさ』を判断するようになる。そのキャラクタらしさの判断は目や口が大きな要因となると僕は思う。
私たちはリアルでの他人同士のコミュニケーションと同様に、キャラクタの絵を見たとき目や口で形成された表情から、キャラクタの内面から湧き出るコンテクストを連想するのではないか?ということだ。これによって例えば「歌織さんらしさ」「高垣楓らしさ」「佐々木千枝らしさ」「徳川まつりらしさ」などといったキャラクタ固有の『らしさ』の情報を無意識に察知する。もちろんその『らしさ』は顔と口と行った要素だけでなく、全体のバランスなどを統合した結果なのだが。
美麗なキャラクタイラストを見て「ん?」と思ったことはないだろうか?僕は時々ある。肢体も服装も背景もすごく煌びやかで美しい。なのになんか違う。そういった類の感想である。なかったらごめんなさい。その違和感はキャラクタ内面に対する描き手側の理解と受け手側の理解の不一致が一つの理由であるように思う。いわゆる解釈違いである。
描く側もまた、自身の中でキャラクタを解釈し、そのキャラクタらしさのある表情や所作をイラストという形でアウトプットする。自明だが、原作があるキャラクタは2次創作になる過程でどこかに描き手のオリジナリティが表出される。
つまり我々は無意識下において、キャラクタイラストの外面から内面を連想して得られた『らしさ』と、各々が蓄積しているそのキャラクタの周辺ストーリからイメージを構築した『らしさ』と一致するかどうか答え合わせをし、共感なりなんなりをしているのである。
そういった意味では前述したつかさ社長の「内面は外面の一番外側」は実は多くの人が無意識下でわきまえてることであり、それが定期的にバズる要因なのではないかと考える。
オタクはiPad Proを買え
敷居問題
さて、いきなりアフィブログの様な見出しをつけてしまった。
上記で『らしさ』について自分の考えを述べた。なんだか冗長で難しいことを言ってるように見えて、つかさ社長はすごいなあっていうただ個人的な感想だ。
絵画に限らず、創作は製作者の内面のアウトプットである。音楽、彫刻、絵画、映像・・・思いつく限りでのこれらの創作活動は、制作物の表層から内面を感じられる気がする。
そういう意味でこれらの活動を趣味にすると面白い。受動的か能動的かはどうでもいい。絵を見るのも作るのも、映画を見るのも作るのも、音楽を聴くのも作るのも、どれもきっと楽しい。
イラストをみてるうちに「自分でお絵かきをしたい」って思う人は一定数いると思う。でもお絵かきをしたいけど敷居が…センスが…ってなってる人は大勢いるし、僕もそうだった。過去形はおかしい、僕は今でもセンスのなさに絶望してる。ただお絵かきは最高なことに敷居がめっちゃ低い。何故なら紙と鉛筆があれば絵はかけちゃうのだ。だから、とりあえずやってみればいい。とりあえず実際にアナログで描いてみて「あ、楽しいな」ってなったらその人はセンスがあるのだと思う。絵に限ったことではないが、初動で人より上手いとか下手とかは関係なく続けられそうか、そうでないかが重要であると思う。職業にしていくのはそれ以外の要因がありそうなので・・・
幼少期の絵は概ね立体感がなく、要素と要素を平面に並べただけだけである。そこから学習を重ねるうちに立体的な構造や遠近を学び、より写実性を増していく。遠近の感覚は、ヒトが生来として持ちうる能力ではなく、日常の反復によって繰り返す高度な強化訓練だからだ。つまり、ゴール設定がどの程度かにもよるが、”ある程度のゴール”を目指すだけなら子供から絵を描き続けている必要は全くないのではないか、と僕は主張したい。
じゃあ、鉛筆と紙に描いて楽しいなって思ったらどうすればいい?答えは簡単、iPad Proと Apple Pencilを買おう。
購入した?じゃあProcreateを購入しよう。
iPad Proを勧める理由
随分、高い買い物をしたかもしれないけれど、大丈夫。オタクはiPad Proと相性がいいから。
じゃあ、まず他の液晶タブレットや板タブなどに比べ iPad ProとApple Pencilの組み合わせが良いか、という話をする。
とは言っても僕みたいな素人が説明しても説得力に欠けるため、以下のリンクを読むことを推奨する。
iPad Pro を買おうか迷っている人へ (その1) – Yamada Lab.
2016年と情報自体は少し古いが、概ね今の傾向と変わらないように思う。知人のプロのイラストレータがこの組み合わせで仕事をしているので、今iPad Proで絵を描くことは、当時よりスタンダードとなりつつあるのではないか?
サイズ感やペイントソフトの選び方なのだが、現在はライト層は11インチでProcreate、ガチ勢(プロ)は12.9インチでClipstudio(ペイントソフト、以外クリスタ)を使ってるイメージがある。これから始めたいなら、取り回しのしやすさなどから11インチを勧め、既にPCでクリスタを使ってる場合12.9インチが良い。というのもクリスタは多機能な反面、UIの画面占有率が高く11インチだと作業がしにくいとのこと(知り合いに聞いた)
ちなみに自分は1世代前の10.5インチを愛用している。絵を描くだけでなく、電子書籍、ブラウジング、Youtubeなどの動画視聴、そしてアプリゲームなどは全てスマートフォン(iPhone7)ではなくiPad Proを使用している。もはやiPhone7はテザリング用の端末となり使っていない有様である。ついでに言うと日常で紙を使うことがなくなった。メモなどはすべてiPadで済ませている。
あれ、ここまで書いて気づいたけどまとまる気がしない。というかアフィブログみたいで嫌なんで次に行きます。
絵の練習
道具は揃った、何をしよう
ここまでで、遠近法の獲得からiPad Proを買えというアフィブログもビックリなわけわからない展開をした。ここからはじゃあ自分がどんなアプローチをしているか、という自分語りをしたい。
まず、当たり前だがiPad ProやApplePencilはツールであって絵を描くという行為そのものではない。
じゃあ絵の上達のために何をすれば良いかという話になるのだが、正直僕はわからないので一番参考にした個人様のブログを貼る。
参考までに『カルアーツ』とはCalifornia Institute of the Artsの略称の『CalArts』のことであり、世界最高峰の美術大学である。ここの記事は、お絵かきをしたい人にとって全記事に読む価値が存在すると僕は思う。ただ、その中でもまずは『カルアーツに合格した話』という項目を読むのがおすすめである。
お絵かきには何か王道があるはずだ…楽して上手くなりてえ!って思った僕はまずはここのサイトにたどり着いた。カリフォルニアに対してなんとなく馴染みがあった、というのが一番の選定理由だが。これを読み、まずはドローイングや筋骨格スケッチを始めることにした。その際に、そのブログでも紹介されてるが、筋骨格のスケッチを描くために以下の本を参考にすることとした。
上記の本は本当に素晴らしい。本だけに。これを読み、ひたすらここで描かれたスケッチを模写して、なんとか全体の筋骨格スケッチを作った。純粋に読み物としても楽しめるので、まずは書店で立ち読みするのがいいかと思う。年間50冊程度本を購入するが、ここ2-3年の買った本の中で、一番よかったと思う。ちなみに二番目の本はこれ。
行動経済学の本である。面白かった。
さて、少し話はズレたが、これらの資料をもとに得た自分流のアプローチについて触れていきたい。
上達へのアプローチ
キャラクタ描きたい!と言っても色々なバリエーションがある。顔が描きたい!キャラの全体像が描きたい!ストーリー(マンガ含)が描きたい!・・・と言った具合である。しかし、前提条件として必要なのはデッサン力であると思う。見た物を見たままに描く。そう言った技術なしに魅力的な絵は描けない。ただ、それは難しいことだと思う。なのでまずは模写をするのが良いのではないかと思う。
模写をするに当たって、まず重要なのは2Dのキャラクターではなく現実の人間の全身を描くことである。こういうと語弊があるが、顔は意外と描けてしまうのだ。なぜならば、先にも述べたが普段から他者と会話する場合顔を見ながらコミュニケーションするため、思ったより顔を理解している。しかし、体はそうではない。他者の体をまじまじと観察する機会はほとんどない。そんな訳で体を含めた全身のヌードスケッチが描ける環境を用意できれば理想だが、そういう訳にはいかない。
道端の人に
「ヌードスケッチの練習をしたいので、今から僕と一緒にラブホテルに行って脱いだ後、写真とその場でスケッチを描かせてくれませんか!あ、もしよかったらそのあとセッ・・・」
と言ったらどうなるか。まあ、刑務所行きは免れるが留置所行きにはなるだろう。彼女にだって
「ヌードデッサンをしたいから脱いで止まってて描かせてくれ」
なんて言えない。殺される。今の僕の彼女はシャイガールのため画面の中から出てきてくれない。おかしいな、おかしいね。
そこで思いついた。AV女優を模写すればいい。これに関しては、完全に自己流のため、人によっては不快で無理かもしれない。それに、上達速度効率を考えれば正しいやり方ではないかもしれない。少なくとも参照資料は偏る。しかし、僕は偶然にもそれに対して不快に思わず、むしろAVに肯定的な視点を持ち、モチベーションを保ちながら見ることができる人種であった。おい、てめえ、何か言いたいことあるか?
なのでそこそこ描いた。というか現在進行形で描いています。しかしまあ流石に見せられない。形はどうあれヒトのヌード資料はこのネット時代いくらでも落ちているので、レッツ模写。
おわりに
まずはブラウザを閉じずにここまで読んでくださった方、ありがとうございます。結局、まとまることなく本記事は終わりを迎えるみたいです。
こう言った形で、長々と自分の趣味の周辺について語らせていただきました。普段、あまりこういうことをしないので高い熱量で楽しく文章を書けた反面、先の展開をロバストに考えていなかったのはいかがなものかな、と反省してます。
以上。